今日本におきまして”女子ゴルフ”が大人気となっております。(肌感覚)
なのでこの女子ゴルフの歴史を少し調べたくなりましたので今回は綴ってみたいと思います。
ゴルフ全体の起源は前回綴りましたが一体どうやって女子ゴルフは繁栄していったのかまずは”概要”からみていきたいと思います。
概要
女子ゴルフの歴史はスコットランドやイギリスで始まります。
この時代には特に上流階級の女性たちがこのスポーツに興味を持ちプレイしていました。
パリで開催された第2回近代オリンピックにおいて女子ゴルフがオリンピック競技として初めて採用されました。
しかしその後しばらくの間女子ゴルフの国際的な組織化や大会の発展は緩やかでした。
アメリカを中心に女子ゴルフの人気が急速に高まり始めプロとアマチュアのトーナメントが開催されるようになりました。
この時期にベーブ・ザハリアスなどいくつかの伝説的な女子ゴルファーが現れました。
女子ゴルフの国際的な大会が創設され世界中の女子ゴルファーが競い合う場が広がりました。
1950年にはLPGA(Ladies Professional Golf Association)が設立され女子プロゴルフの発展に大きな影響を与えました。
女子ゴルフはますます人気を集め新たなスターが輩出されました。
この時期にはナンシー・ロペスなどの選手が注目を集めました。
女子ゴルフはさらに国際的な舞台で成長しアジアからも優れた選手が登場しました。
タイや韓国日本などの国々からの選手が活躍し女子ゴルフの競技レベルはますます高まっています。
女子ゴルフの世界的な大会やトーナメントは増加し賞金も増えています。
同時に女子ゴルフのプロ選手たちはスポーツマンシップやチャリティ活動などさまざまな面で社会的な貢献をしています。
世界初めての女性ゴルファー”メアリー・スチュアート”(Mary Stuart)
女子ゴルフの歴史を語る上で避けて通れないかたがこの”メアリー・スチュアート”です。
まずは彼女の生涯を見てみましょう。
生涯
スコットランドに関連する歴史的な人物の中で最も有名な人物の一人「メアリー・スチュアート」(Mary Stuart)は16世紀のスコットランド女王であり後にフランス王妃となった人物です。
彼女は16世紀のイギリスの政治的な騒乱期特にイングランド女王エリザベス1世との対立や処刑されたことで知られています。
メアリー・スチュアートは1542年に生まれ6日後に父であるジェームズ5世が死去したため幼少期からスコットランド女王の地位に就きました。
彼女はフランスに送られフランス王フランソワ2世と結婚し一時期フランス王妃として過ごしましたが1560年に夫が死去した後スコットランドに帰国しました。
帰国後メアリーは自身の王位を巡って政治的な騒乱に巻き込まれ特に彼女とイングランド女王エリザベス1世の間には対立がありました。
メアリーは複数の結婚を経験しその中には後に暗殺されることになる第二夫のヘンリー・ステュアート卿も含まれています。
メアリーは不運にも自身の王位をめぐる陰謀や政治的な動きによってイングランドで捕らえられ終身の監禁生活を送りました。
最終的に1587年にエリザベス1世によって死刑宣告を受け斬首されました。
彼女の死はスコットランドとイングランドの歴史における重要な出来事であり彼女の生涯は数多くの文学作品や映画にも描かれています。
”メアリー・スチュアート”と”キャディー”
この”メアリー・スチュアート”と”キャディー”の言葉の起源に関係があるとされています。
その前にまずはキャディーについてご説明しましょう。
“キャディー”とは
「キャディー」はゴルフ用語でプレーヤーがゴルフコースで使用するクラブや道具を運ぶ人を指します。
この言葉の語源にはいくつかの説がありますが最も一般的な説は以下の通りです。
スコットランドの方言説
「キャディー」の語源はスコットランドの方言であるとする説があります。
スコットランドでは19世紀にゴルフが発展しゴルファーのためにクラブや道具を運ぶ人々が必要になりました。
この役割を果たす人々が「キャディー」と呼ばれるようになったとされています。
フランス語説
「キャディー」の語源はフランス語の「cadet(カデット)」から派生したとする説もあります。
これは若い男性や下級士官を指す言葉でありゴルフのキャディーも元々は若い男性が多く彼らがゴルファーのためにクラブや道具を運んでいたことからこの説が提唱されています。
いずれの説が正しいかは明確ではありませんがこれらの説が「キャディー」の語源に関する一般的な理解となっています。
なんとなく予測がつくと思いますが彼女の生涯においてフランスからスコットランドに帰国するタイミングでゴルフを始めフランスから連れてきた「cadet」」にクラブの管理をさせたそうです。
これがなまって「キャディー」になったという物語があります。
LPGAの歴史(1990年までを中心に)
LPGAは世界で最古の女子プロスポーツ組織です。
また日本の”JLPGA”と混同しないように”USLPGA”と表記される場合があります。
設立の背景
LPGA(Ladies Professional Golf Association)は女子プロゴルフ選手のための団体であり1950年に設立されました。
その設立の経緯にはいくつかの要因が関与しています。
男子中心のゴルフ界に対する反応
当時のゴルフ界はほぼ完全に男子中心であり女子選手はほとんど注目されていませんでした。
女子プロゴルファーのニーズ
1940年代後半から1950年代初頭にかけて女子プロゴルファーたちは男子プロゴルファーと同じように競技に参加し賞金を獲得できる機会を求めていました。
しかし当時の状況では女子選手は男子選手と同じ賞金や競技の機会を得ることが難しかったのです。
資金調達とプロモーションの必要性
女子プロゴルフの競技を促進し女子選手に経済的な支援を提供するために資金調達とプロモーションが必要でした。
LPGAの設立はこれらのニーズに応えるための一つの方法でした。
設立メンバー13人
このような背景から1950年LPGAが設立されました。
LPGAは女子プロゴルファーの競技機会を提供し彼女たちのキャリアをサポートするとともに女子ゴルフの普及を促進することを目的としています。
LPGAが設立された際の当時の13人のメンバーは以下の通りです。
この13名を選手登録としてスタートします。
- アリシア・ケネディ(Alicia K. “Babe” Didrikson Zaharias)
- ベティ・ジェームソン(Betty Jameson)
- ハリエット・キルダゴー(Helen Hicks)
- モーリン・オサリバン(Moyra Sullivan)
- マリリン・スミス(Marilynn Smith)
- シリル・ケネディ(Shirley Spork)
- ジャニス・ポーレット(Marlene Bauer Hagge)
- バーバラ・ロムアック(Helen Lengfeld)
- アリス・バウアー(Alice Bauer)
- パティ・バーグ(Patty Berg)
- ベティ・ハックマン(Bettye Danoff)
- ヴァロ・ジョーンズ(Valette “Val” Skinner)
- ダリア・マックスウェル(Dorothy Germain Porter)
これらの女性たちはLPGAの創設メンバーとして女子プロゴルフの発展とプロフェッショナルとしてのキャリアの向上に貢献しました。
概要
LPGAは1950年に13人の女性によって設立。
1950年代後半にLPGAは最初のメジャーとなる「LPGA選手権」を開催しました。
これ以降LPGAが最高峰とされます。
日本、韓国、台湾、中国などのアジア諸国やヨーロッパなどでもLPGAツアーが開催されグローバルな競技団体としての地位を確立しました。
人物(1990年までを中心に)
ベーブ・ザハリアス
ベーブ・ザハリアス(Babe Didrikson Zaharias)はアメリカのスポーツ選手であり特にゴルフと陸上競技で名声を得た人物です。
彼女は1911年生まれで1930年代から1950年代にかけて活躍しました。
ザハリアスは多才なスポーツ選手として知られており陸上競技、バスケットボール、野球、ゴルフなどさまざまな競技で成功を収めました。
彼女は1932年のロサンゼルスオリンピックで陸上競技で金メダルを獲得しその後も陸上競技の世界記録を樹立し続けました。
ゴルフでも非常に成功を収め1940年代と1950年代にLPGAツアーで活躍し10以上のメジャー大会で優勝しました。
彼女は女子ゴルフの歴史において最も偉大な選手の1人として評価されています。
ザハリアスはスポーツの分野での功績により多くの殿堂入り(もちろん”世界ゴルフ殿堂”入りも)を果たしており彼女の名前はアメリカのスポーツ史において不朽のものとなっています。
パティ・バーグ
パティ―・バーグ(Patty Berg)は1918年2月13日にミネソタ州ミネアポリスで生まれたアメリカ女性のプロゴルファーで(1918-2006)1940代から1960年代の選手でした。
メジャー大会に15勝しこの勝利数は女子ゴルファーとして現在最多で”世界ゴルフ殿堂”入りしています。
ミッキー・ライト
ミッキー・ライト(Mickey Wright)は1935年2月14日にアメリカ・カリフォルニア州サンディエゴで生まれ女子プロゴルフ協会(LPGA)の創設者の一人であります。
彼女は幼少期からゴルフの才能を示し若くしてトーナメントに参加し始めました。
1950年代から1960年代にかけて女子ゴルフ界で圧倒的な成功を収めました。
彼女は通算82回のLPGAツアー優勝を記録しそのうち13回はメジャートーナメントでの優勝です。
これは男女を通じて歴代最多のメジャータイトル獲得数として記録されています。
彼女のスイングは非常に優雅で力強く当時の女子ゴルフに革命をもたらしました。
しかしライトのキャリアは急速に終わりを迎えました。
怪我や健康上の問題が彼女のゴルフに影響を与えプロゴルフツアーから引退することを余儀なくされました。
その後も彼女はゴルフ界に影響を与え続け後進の選手たちにアドバイスや指導を提供しました。
2000年に”世界ゴルフ殿堂”入りしその後もゴルフ界で高い尊敬を集め続けています。
ナンシー・ロペス
ナンシー・ロペス(Nancy Lopez)は1957年1月6日にアメリカ・ニューメキシコ州トラスクエスで生まれ幼少期からゴルフを始めました。
1970年代から1980年代にかけてLPGAツアーで活躍し数々の大会で優勝しました。
彼女のキャリアにはメジャー大会での勝利も含まれており全米女子オープンなどで輝かしい成績を収めました。
彼女はそのプレーだけでなく親しみやすい人柄や優れたリーダーシップでも知られています。
彼女は多くの人々にとって女子ゴルフのアイコンでありスポーツ界全体における女性アスリートの地位向上に貢献しました。
1987年”世界ゴルフ殿堂入り”
世界ゴルフ殿堂入り
世界ゴルフ殿堂(World Golf Hall of Fame)はゴルフ界の偉大な選手や貢献者を称えるための殿堂でありゴルフの歴史や遺産を称える場でもあります。
以下は世界ゴルフ殿堂入りの歴史についての概要です。
- 1974年: 世界ゴルフ殿堂の構想が生まれる。
- 1974年: アメリカPGA(Professional Golfers’ Association of America)が最初の殿堂入りクラスを発表しました。このクラスには、ゴルフ界で偉業を成し遂げた選手たちが含まれています。
- 1978年: アメリカPGAと国際ゴルフ連盟(International Golf Federation)が共同で世界ゴルフ殿堂を設立しました。
- 1978年: 最初の殿堂入り式が行われ選手や貢献者たちが栄誉を称えられました。
- 1998年: 世界ゴルフ殿堂がフロリダ州セントオーガスティンにある世界ゴルフ村(World Golf Village)に移転しました。これはゴルフの歴史や文化を称える複合施設で殿堂入り者たちの栄誉を永遠に保存する役割も果たしています。
- 現在: 殿堂入りの条件や選考プロセスはアメリカPGAや国際ゴルフ連盟が定めた基準に基づいて行われています。これには、ゴルフの競技成績、貢献、人格、およびゴルフ界への影響が考慮されます。
殿堂入り者はプロゴルファーだけでなくアマチュアゴルファーやゴルフ界に貢献した人々も含まれています。
彼らの功績はゴルフの歴史や文化に大きな影響を与えたとされています。
いかがでしたか?こんなにも深い歴史があるとは思いませんでした。しかし女性って偉大だなぁ。とつくづく思います。。。
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